Light Wolds vol.0〔1985.6.10発行〕掲載

FEEL THE KYON2


 大学時代に部活の個人誌として作った「Light Worlds」のプレ創刊号に載せた原稿。
 うーん、こんなに長いとは思わなかった。掲載時はアイドル誌等からのキョンキョンの切り張りをコラージュしながら合間に文章が載っている感じだったので、そんなに長いとは思ってなかったのだが。
 青い、青すぎる。意識して回りくどい書き方をしているとはいうものの、特に後半、論調がグダグダになっている。かなり恥ずかしいものではあるが、目をつぶって手を加えないで載せておく。

 84年は、確かに小泉今日子の年であった。
 85年も、果たして小泉今日子の年となりうるだろうか。

 小泉今日子を語ることは困難である。それは、小泉今日子は常に現在のものであるからだ。小泉今日子の過去だけを語ることは無意味だ。小泉今日子は、小泉今日子となる以前の小泉今日子、そして小泉今日子が現れる以前のアイドルの歴史、それから小泉今日子に立ち並ぶアイドル達、これらすべてを内包し、常に現在であり続ける。

 と、まずぶちあげておく。現在を語ることは常に難しい。従って現段階の僕に『小泉今日子論』はまだ書けない。と、逃げ道をつくった上で、小泉今日子についてなにか感じることを書いてみようと思う。思いがうまく言葉に表せるか?

 今年に入ってのキョンキョンは、まず女優であることから始まった。『生徒諸君』『少女に何が起こったか』『女の一生』の三本のドラマに主演した。今年に入って、といったが、ドラマの撮りは昨年後半から始まっているのだから、これは84年の小泉今日子を引きずっているだけにすぎない。つまり、今年の三月までの小泉今日子は84年の小泉今日子の残り火であるといえる。
 では、84年の小泉今日子とは何であったのか。これを考えるには、やはりデビュー以来の小泉今日子を振り返らねばならない。ここで初めて過去を語る意味が生じたのだ。

 82年春、立ち並ぶ強力アイドル(松本伊代、中森明菜、早見優、堀ちえみ、石川秀美など)とともに、まだ小泉今日子でない小泉今日子としてデビューした小泉今日子は、年末のレコード大賞新人賞に洩れ、そこで初めて自分が小泉今日子であることにおぼろげながら気付くことになる。つまり、それまで「ビクターからデビューしたバーニングの小泉今日子でーす」と虚ろな声でアイドルしていた彼女が、初めて「ヤル気」を出すことにしたのである。ここから、小泉今日子の小泉今日子への道が開かれたのだ。

 83年になり、小泉今日子に目覚めた小泉今日子は『春風の誘惑』とともに髪を切った。ここで、小泉今日子は一層、小泉今日子に近づくことになる。ここで多くの人が間違えているのは、髪を切ったことによって小泉今日子は小泉今日子になったのではないのである。それは逆なのだ。小泉今日子は、小泉今日子になろうとする意志に基づいて自ら髪を切ったのである。注意しなければならないのは、従ってこの時点ではまだ小泉今日子は小泉今日子になりきれていないのだ。髪を切ることによって、彼女は世間に対し、自分が小泉今日子になっていくことを宣言したのであった。世間はここで、今までの小泉今日子ならぬ小泉今日子に気付くことになる。付け加えるなら、僕がファンになったのもこの時だ。

 そして、彼女は『まっ赤な女の子』に出会う。ここで初めて、小泉今日子は小泉今日子となるのである。

――デビューしてからこの曲までは、記憶喪失みたいな私がいて、この曲を歌ったおかげで記憶が取り戻せたという感じ。
(『FM STATION』85年No.11収録インタビュー)

 『まっ赤な女の子』が、彼女を小泉今日子にしたのか、小泉今日子になろうとする意志が『まっ赤な女の子』を呼び寄せたのか、ともかくこの出会いは衝撃的であった。

 小泉今日子の存在を世間にあまねく知らしめるのに83年いっぱいかかった。続く『半分少女』『艶姿ナミダ娘』は、曲調は違えどみんな『まっ赤な女の子』のバリエーションである。
 これらの曲のタイトルは全部、キャッチフレーズの代わりとなる。歌詞の内容を彼女に合わせる必要はなかった。さらには、曲名(=キャッチフレーズ)も彼女に合わせる必要はないのである。というか、小泉今日子が『まっ赤な女の子』である必要はないが、『まっ赤な女の子』は小泉今日子でなければならないのだ。『半分少女』然り、『艶姿ナミダ娘』然り、はたまた『クライマックス御一緒に』=「あんみつ姫」然り、である。
 小泉今日子のイメージを売るのではなく、イメージによって小泉今日子を売るというのが、小泉今日子となった小泉今日子の周囲が生んだ(小泉今日子となる意志によって生まされた?)戦略だったのである。

 そして84年。小泉今日子の年となる。これは当然それまでの展開から、彼女の年とならねばならなかった。なるべくしてなったのである。心ある人は、そのことが見抜けた筈だった。慧眼の士、小林伸彦もやはり述べている。

「これからは、ぼくと小泉今日子の時代なのだから!」(『青春と読書』1984年6月号)

 84年の特筆すべき活動を幾つか挙げておかねばなるまい。まず一番衝撃的だったのは『DUNK』のイメージガールとして学ランを着た姿であった。男性の女装、女性の男装についてはまた稿を改めて書かねばならぬが、簡単に言うと、女性が男性の衣装を身につけるとき、それは男性をイメージしない。あくまで女性である自分が強調されるのだ。ここで、小泉今日子は学ランを着ることによって自分を強調した。これは『DUNK』編集部が小泉のこれまでの戦略をはからずとも利用したうまい方法である。つまり、ここでも小泉今日子の持つイメージではなく、学ランを着たイメージの小泉今日子を使って雑誌が売られたのである。その結果は、発売即完売という形になって現れた。

 小泉今日子の年を裏付けるように、『渚のはいから人魚』はチャート初登場第一位。聖子、明菜に続くアイドルといった形で、小泉今日子は世間に認識されることになる。
 次いで、『迷宮のアンドローラ』。例の長岡秀星・長島茂雄という妙なラインの企画もの。彼女がイメージガールとして選ばれた。ここでも同じ。アンドローラのイメージの小泉今日子を使った企画である。間違えてはいけない。小泉今日子がアンドローラのイメージなのではない。アンドローラのイメージが小泉今日子なのだ。あくまでもイメージが先である。

 そして、数々のイメージをまといつつも、常に小泉今日子でありつづける小泉今日子が、イメージビデオを作った。『タイムレス・ワールド』。六曲からなる本編プラス、メーキングがついている。どちらか一方が重要なのではない。どちらも重要だ。本編もメーキングの部分も、小泉今日子は小泉今日子のイメージを持つ小泉今日子であった。(無理にややこしい言い方をしているのではないことを判って欲しい。)

 『ヤマトナデシコ七変化』が出た頃から、彼女は役者として忙しくなる。三本のドラマ。そこには、ナッキー、雪、キクのイメージを持つ小泉今日子が演ずる、ナッキー、雪、キクがいるわけではない。ナッキー、雪、キクのイメージをまとった小泉今日子による、小泉今日子がいるだけである。

 以上、84年の小泉今日子である。他に、KYON2という呼び方がなされ、12インチシングルのクレジットに自らその呼び名を使ったということも挙げられるが、これも同じこと。KYON2というイメージの小泉今日子が出来たに過ぎない。小泉今日子がKYON2に変化したのではない。世間にこの誤解が多い。

 ここまで見てくればわかる通り、小泉今日子は、「〜のイメージが小泉今日子だ」、「〜である小泉今日子」と、言うなれば主語的存在ではなく、目的語的、述語的存在として小泉今日子を強調している。これが、『まっ赤な女の子』以来、すなわち小泉今日子が小泉今日子となって以来の方法論であった。
 85年春、三本のドラマはすべて終わり、彼女は歌手に戻る。そこで出た曲が『常夏娘』。またしてもここで小泉今日子は、曲名=キャッチフレーズ=イメージを執拗に繰り返している。『まっ赤な女の子』以来、一貫してこの姿勢を崩さない彼女が、この路線からはずれた時どうなるのか、非常に興味深い。

 小泉今日子は、与えられたイメージを次々と身につけながら常に小泉今日子であり続ける。それは、矛盾する言い方になるが、小泉今日子が与えられたイメージをあらかじめ自らの内に含有しているからである筈だ。

 髪を刈り上げたり、横をソリ上げたり、「流行通信」してみたり、最近のキョンキョンはどんどん過激になっているといわれている。過激は過激になるほど、周囲の慣れを呼び、過激性が薄れていってしまうものである。過激を続けるということは大変危険なことであるのだ。常に過激であり続けるには、時には過激をやめなければならないのかもしれない。ここらへんの難しい問題を果たして、うまくキョンキョンは乗り越えていけるのだろうか。

 84年は、確かに小泉今日子の年であった。
 85年も、果たして小泉今日子の年となりうるだろうか。

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