待望の殊能将之『美濃牛』(講談社ノベルス)が遂に出た。
『ハサミ男』に衝撃を受けた読者にとって待ちに待った、そして作者の真価を問うべき第2作、というわけである。
もっとも、殊能氏をよく知る者にとっては、「真価を問う」も何も、その才能は既に思い知らされているわけで、初めからある種の安心感を持って、この部厚い物語に身をゆだねることができるという特権がある。
かくいう僕もなんとこの物語の中に「渡辺刑事」として出演させてもらってるわけで、なんというかその、奇妙な気分で読み始めることとなった。
んー、作者が知人だからといって、自分がモデルにされた登場人物がいるからといって、提灯をもっていると思われるのは非常にシャクなのだが、傑作といわざるを得ない。
今回は『ハサミ男』とガラリと趣向を変え、横溝正史の諸作に材を得た造りとなっている。僕もいわゆる横溝ブームの前後に結構な数の作品を読みあさったのだが、実は岡山ものより東京ものが好き、という変なファンだった。磯川警部より等々力警部の方が好き、という言い方もできる。泥臭いイメージのある岡山ものの名作群を評価するにやぶさかではないが、東京もののモダーンなイメージの方に惹かれるものがあった。
殊能氏はおそらくそんな二分法に意味を見出さないであろう。殊能氏にとって横溝正史はあくまで「論理の人」であったのだ。
これはユリイカはじめ各種殊能氏インタビューで自ら詳しく語っていることなので繰り返すまでもない。
そんな殊能氏が横溝作品に敬意を表しつつものした『美濃牛』は、だからとても論理的な作品である。
その構造や縦横に張り巡らされた仕掛けを語る才は自分にはない。ただひとつだけ書いておきたいのが、その文章のことである。
以前、『ハサミ男』を読んだとき、それが知人の手になるものかどうか明らかでなかった時点で僕が感じた唯一の感想を、『VOICE』にはこう書いた。
筋とか展開とかはもとより、その語り口自体に違和感を感じない。これは、「わかっている」人の文体である。何が「わかっている」のかは、一口で言えないが、凡百のノベルス作家とは一線を画するのは明らかである。
奥歯にものの挟まったような言い方で要を得ないが、読みやすくクセのない文体でいて表現された内容がスッと頭の中に入ってくる、その博識からあれこれ話題が飛ぶようで一切余計なことが書かれていない、そんなことを言いたかったのだと思う。
僕がもごもごと表現し切れなかったことを、作者はこの『美濃牛』の中で、実に簡潔に書き記している。
物語の冒頭近く新書版57ページの、羅堂陣一郎が正岡子規の文章を評して云う部分である。
やがて陣一郎は、これは文章ではなく、頭の中身の問題だ、と気づいた。子規は頭が論理的に出来ている。何を書きたいか、何を言いたいかを正確に把握しているから、平易な表現で書きあらわすことができる。要するに、頭がいい、ということだ。
まさにそういうことである。参った。自作の中で自己分析をされてしまってはかなわない。しかも簡潔に。
続けてこうある。
世の中には、平易に書く天才というものが存在する。子規がそうだし、漱石がそうだ。時代を下って、大衆文学に目を向ければ、岡本綺堂や、江戸川乱歩や、横溝正史が、平易に書く天才である。
そして殊能将之もこの系譜に連なるのである。そのことは作者本人が間違いなく一番よく判っている筈である。
であるからの、横溝であり、俳句である、ということだ。
世の中には、いかにその時の風俗を書こうが、流行り言葉を使おうが、一向に古びない文章というものがある。逆にその時の流行や文句がほんの少し使われているだけで、いやに古臭く感じてしまう文章もある。今まで不思議に思ってきたのであったが、これでようやく判った。
文体の問題ではないのである。その内容を平易に表現できるという才能の問題だったのである。
かくして『美濃牛』は、ミステリの、いや小説の、決して古びることのない名作となるのである。
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