『ハサミ男』との出会い(2)
【承前】
『Lactose』編集長(以降、ここでは仮にT氏としておこう)は、大学時代の先輩にあたる。
先輩といっても、同じ大学だったわけではない。当時僕が大学生活の半分以上を費やしていたSF研究会で交流があった隣の大学の先輩である。
その筆から紡ぎだされるレビュウや評論には定評があり、僕も単純にその文章のファンだった。というより、ある種畏敬の目で見ていたかもしれない。ペーペーで入部したばかりの僕のようなものが近寄りがたい存在であったし、また実際近寄りがたい雰囲気を持った人であった。
その後、年を追うにつれ、多分音楽の話からであったと思うが、雑食で何でも聴く僕を面白がってくれて、少し仲良くしてもらうようになった。しかしそのうちに、T氏は大学を辞め、東京の編集プロダクションに引っ張られるようにして名古屋を去った。
実はその後の方が、付き合いが深いかも知れない。
T氏はその溢れんばかりの才能をとどめることが出来ないかのように、次々と個人誌(今でいうフリーペーパーだが)を発行し、それはまるで手紙代わりのように、続々と僕らの元に届けられた。音楽の話題あり、映画の話題あり、SFの話題あり、ミステリの話題あり、のそれらは、どれもがことごとく面白く、堪能させられた。博覧強記という言葉があるが、そんなある種硬さを感じさせる言葉では表現しきれない、しなやかな知性と教養を感じさせる文章で、読んでて肩が凝らないセンスのいいファンジンであった。
そのうちの一つが『Lactose』で、これはT氏自身の原稿のみならず、交流のあった人間の原稿も集めて載せようという試みであったようだ。ありがたい事に僕も声をかけてもらって感激したはいいものの、しがないコラムしかかけない性で、その通しタイトルを「名古屋エレキング倶楽部」とさせてもらったというわけなのだ。
それと前後して、東京からたびたび電話をもらった。退屈しのぎということであったと思うのだが、いつも喋るのはほとんどT氏。その時々にあったことをおもしろおかしく伝えてくれた。僕はといえば、ふむふむとうなずき、ガハハと笑うばかり。さまざまなタイミングでかかってくる電話を楽しみにしていた。
が、僕が結婚するのと前後して、その連絡がなくなった。こちらも生活が変わったばかりでバタバタしていたということもあって、そのままになっていたのだが、少し後で、T氏と親しかった人物より、T氏が体調を崩して職場を辞め、故郷に帰ったと聞かされ、連絡が取れない状態とわかり、深いショックを受けた。
それから、仲間と時々、どうしているのだろうと噂しつつ、四年間が過ぎた。東京を去って以来、周囲の仲間の誰ともぷっつりと音信不通になっていた。実家の住所は調べれば判ったはずだが、今までの付き合いでこちらからアクションをかけるということをしてこなかった習性もあり、また昔の近寄りがたかったイメージも残っていたので、結局そのままになってしまっていた。盆暮れ正月には思い出し、また昔のファンジンを見てはその才能を惜しみつつ、おのれの不義理を悔いていた。
最近、ここの「らいぶらりぃ」を整備するため、また昔のファンジンを引っ張り出して思いに耽っていたところに、この本の出現である。
とはいえ、この献辞だけでは、本当にそうだろうかという思いは残る。藍上雄という同名のプロがいるんじゃないだろうか、とか、いや漢字まで一緒ということはあるまいとか、ぐるぐる頭の中を疑念が渦巻く。
しかし、かつてT氏が浜田さんにミステリのことなどで、電話をよくしていたのは事実だし、考案したミステリのアイディアを話したなんていうことも、直接本人から聴いたことがあるような気もするし、そうであれば、この献辞は至極自然なものに思われる。
慌てて、見返しの作者紹介を確認する。写真など当然のごとく載っていない。そこには生年月日と単純な身体的特徴(それも人を喰ったもので特定不可能)しか書かれていない。しかし、生年は間違いない。僕と同年の一級上である。月日まではさすがに覚えていないが、なにかこの辺の日付だったような気もしないでもない。
何か確実な手がかりはないかと、ページを繰る。著者のことばはいかにもT氏らしい。参考・引用文献に目を走らせると、ジョイスやマチュからハイネ詩集やクイーン、ヴォネガットなど広範囲の分野にまたがっている。ありそうだといえばありそうだ。その中でふと目を引いたのは、『北園克衛詩集』。T氏が翻訳などをするとき使っていたペンネームに、北沢克彦、というのがあった。まったくの偶然かも知れないが、こんなとこにも関係性を見出そうとしている自分に気付く。
本文も拾い読みしてみる。新本格系新人にありがちな陳腐な文章ではまったくない。この時点で、まだ疑いを持ちながらも、これはT氏以外にないとほぼ確信していた。
【この項さらに続く】