エレキングブログ前夜
名古屋エレキング倶楽部 ブログ以前の読み物 1997〜2005(再構築版)
1999年11月30日(火)ELEKING'S CHOICE / WEB

『検索デスク』をスタートページに

 こうしてここをご覧になって下さってる皆さんは、当然とりあえずブラウザを立ちあげてから訪れて下さっているわけだが、ブラウザを立ちあげて最初に表示されるページ、すなわちスタートページには何を選択されているのであろう。
 自作のブックマークをスタートページにしている方から、WEB上の各種マイ・スタートページを利用されている方、はたまたブラウザデフォルト(つまりマイクロソフト社やネットスケープ社)という面倒くさがりやさんまで様々であることだろう。
 自分は、ここ数年、会社でも自宅でも『検索デスク』のお世話になっている。
 ここは内外の多数の検索エンジンを一発で検索できるという超有名ページのひとつであるが、それにとどまらず各検索エンジンの動向を調査し、検索率の詳細な調査も含め、各オプションの取り込み等にも目配りの利かせつつ頻繁に更新される丁寧なサイトである。

 見知ったページを巡るのも楽しみだが、やはりネットの醍醐味は検索からだと思う。ひとつのキーワードからまったく知らないページに出会うその瞬間こそが、繋いでいるということの大きな喜びを産みだす瞬間であろう。
 ネット依存症と笑うなら笑えと云いたい所だが、分からないことがあったら、まずネットで検索、というのが近年の行動の指針となっている。ひとつの単語、店の場所、スポーツの結果、あのCMに出てるモデルは誰、あの作家が出した新刊はどこから出てたっけ、この症状は何の病気、昨日見たあの番組が面白かったが他の人の感想も読んでみたい、 などなどなど。このすべての「知りたい欲求」が、この『検索デスク』を出発点に、次々と満たされていく。
 もっとも一発で出したい答えが出てこないことも多い。だからこそ面白いともいえる。引っかかってはきたもののまったく関係ないページが、別の興味や楽しみを引き出してくれることもままあること。「関係があること/ないこと」すべてをひっくるめた意味での関係性が、インターネットを使うということの基本的属性であろう。
 などと、今更ここで私などがこぶしを振り上げてぶち上げるまでもなく、ネット・サーフィンなどという言葉がそのすべてを表している。「情報の海」とやらに溺れる、などと云うことなかれ。溺れるも溺れまいもその人の腕にかかっているのだから。

 ということで、この『検索デスク』は、その出発点としては最適な作りである。1画面での表示のしやすさを考え抜かれたコンパクトな作り、検索画面のみならず、ニュースや生活情報など主要なリンクもすべて納められている。あまりにコンパクトで最初は使い勝手が分からないかも知れない。しかし慣れれば必要にして最小限のものがすべて詰め込まれていることが判るであろう。
 仕事にも個人の楽しみにも欠かせない主要なツールとなるページである。

2000年3月1日(水)エレキングの声

タッチタイプのススメ

  インターネットが普及して、他人の書いた文章を読む機会がぐっと増えた。
  他人と言っても文章を書くことを生業としている人々の文章のことではない。我々のような一般人の文章である。メール然り、ウェブサイト然り。

 パソコン、メールが普及して筆離れが起きる等と言ったのはどこの誰だ。文章を書く人口は爆発的に増えているのではないか。
 今まで、手紙でさえもらったことのない知人から突然メールをもらったり、親しくしていた人のウェブサイトを見て、初めてその人の文章を読んだりするケースが多くなっている。
  最初は、「一億総ファンジンメーカー」などと云ってホームページブームを自嘲気味に笑っていたが、ことはそういうレベルではなくなってきている。文章を書くということが、そのレベルはどうあれ、「日常」になりつつある、ということだ。

 かくいう僕も、文章を書くこと自体は好きな方であったが、便箋に字を書いて、封筒に入れて、切手を貼ってポストに入れるという行為自体が億劫で、どちらかといえば筆不精な方であった。
 しかし、いまや何の苦もなく、メールを毎日送信している。(その割にHPの更新が遅い、といったツッコミはなし。)

 ひとつには、仕事柄、なんの苦もなくキーボードを打てるということにその原因があるかもしれない。思考の流れを中断させることなく、文章にできる。はっきり言ってペンで字を書くよりずっと早い。
 思考の流れを中断せずに書く文章が果たして良い文章かどうかという根本的な問題はさておく。少なくとも僕は、それまでもたいした文章を書いてきたわけではないので、この程度で充分である。

 ワープロ否定派の中には、この点にこだわる人も多い。 確かにワープロ機能を使うことによって、漢字の使用比率を始め、文章そのものが変革してしまう、といったことはあるだろう。しかしながら、それがマイナス要因ばかりになるとは云えないのではないか。プラスになることの方が多いとさえ、僕は思う。

 初心者で、メーリングリストや会議室にたどたどしい文章を送ってきていた人が、ぐんぐん表現力を身につけ、数ヵ月後には見違えるような文章になっているのをみかける、といったことも少なくない。
 数ヶ月で突然文章がうまくなるわけはないのであって、これはキーボードに慣れたという要因が大きいように思う。
 ワープロの操作や、キーを打つ手にわずらわされなくなって改めてその人の文章の味が開花するわけである。

 というわけで、タッチタイプ(ブラインドタッチ)の習得は大事である。キーボードを打つのが億劫という人はもとより、わしゃあ一本指で充分早く打てるわい、と思っておられる御仁もだまされたと思って、習得してみて欲しい。
 僕自身も後者であったのだが、習得してみて随分解放感があった。

 そこらへんに売っている練習用ソフトを買ってきて(フリー&シェアソフトでも一杯ある)、日に30分ずつ一週間ほどやれば、基本は身につくはずなので、あとはこなす量の問題だけである。

 まだまだ文章を書くという行為が幅を効かせそうな情勢である。騙されたと思って基本だけでも身につけることをおすすめする。

2000年3月9日(木)ELEKING'S CHOICE / MUSIC

wyolicaを聴くがよい

 ここ一年は、オーディオの調子が悪かったということもあり、音楽をあまり聴いてなかった。家の二台のミニコンのカセット録音ができなくなり、のみならず車のカセットも調子悪く、いまだMDを導入していない身としては、お得意のレンタルCDもままならず、かといってCDをホイホイ買うだけの金があるわけもなく、休日の車の中で聴くZIP-FMとTVの歌番組が数少ない情報音源となっておったわけである。

 先日、ひょんなことからCD-Rが手に入り、これでCDがガンガン焼けるということで、すこしづつ音楽復帰をしておる最中である。
 まだまだ世間に追いついてない状況ではあるが、そんな中、最近のお気に入りは、wyolicaのファーストアルバム「Who Said "La La…"?」である。

 【ワイヨリカ】と読むらしい。デビューは昨年の春のようなので、既に知る人ぞ知る存在となっているのだろうが、あいにくコチトラ全然知らなかった。

 女性ボーカルとギターの男のユニット。charaのバックをやっていて出会ったというが、雰囲気もcharaからクセを取り去ったような感じではある。聴きやすいですよ。

詳しい情報は以下のリンクを辿ってみそ。

http://www.asahi-net.or.jp/%7ENS8M-HGC/music-wyolica.htm

2000年4月5日(水)ELEKING'S CHOICE / TV

本木雅弘『ブラック・ジャック』を 見逃した

 『ブラック・ジャック』が本木雅弘~?!
 と、番組表を見た誰もが思ったであろう番組が、 今春の特別ドラマでTBS系3月31日夜9時より放送された。

 かくゆう私もTV情報誌でその情報を得ても、ほとんど無視状態、気にも留めていなかった。

 『ブラック・ジャック』の映像化にはあまり評判のいいものがない。一番有名なのは加山雄三主演のTVシリーズだが、原作とは似ても似つかない、どちらかといえば江戸川乱歩シリーズのテイストに近いものがあった。宍戸錠の大林映画と隆大介のVideo作品は未見であるが、やはりあのブラック・ジャックのキャラクターを実写でやること自体、イロモノ的な雰囲気がプンプンしてくるのである。

 で、その日も『ミュージックステーション』で、SPEEDのラストスタジオライブなどを、のほほんと見ていたのだが、終了後何気なくチャンネルを変えると、この本木雅弘版『ブラック・ジャック』が放映されていたというわけである。

 そういえばやっとったのお、という感じで見るともなく画面を眺めているうちに引き込まれ、最後まで見てしまった。このドラマを見ないわたしが、である。

 なんの予備知識も持たずに見たわけだが、カットの撮り方等から、『ケイゾク』のスタッフがやっとるのかな、ということはすぐわかった。案の定演出は堤幸彦である。やはり映像が独特、である。

 本木の『ブラック・ジャック』は意外とハマッていた、と思う。異論もあろうが。いわゆる「変な人」なんだが、コミカルかつシリアスに造型されたキャラクターをしたたかに演じていた。
 ピノコは何故か双子(?)の設定で、ユニゾンでしゃべっている。これまた斬新な設定だが、変なキャピキャピアイドルだされて「あっちょんぶりけー」とかやられるより、よっぽど原作を汚してない。
 ヒロインの永作博美は、『週末婚』等内牧ドラマを引きずるかのような熱演であったが、それほど嫌味はない演技と思う。
 でもドラマを引き締めていたのは、やっぱ悪役の岸部一徳だろうね。さすがです。

 や、なかなかでした。半分見逃したけど。
 再放送なりビデオ化されたら、一度見てちょ。

2000年4月11日(火)ELEKING'S CHOICE / BOOK

殊能将之『美濃牛』はエバーグリーンである

 待望の殊能将之『美濃牛』(講談社ノベルス)が遂に出た。
 『ハサミ男』に衝撃を受けた読者にとって待ちに待った、そして作者の真価を問うべき第2作、というわけである。
 もっとも、殊能氏をよく知る者にとっては、「真価を問う」も何も、その才能は既に思い知らされているわけで、初めからある種の安心感を持って、この部厚い物語に身をゆだねることができるという特権がある。

 かくいう僕もなんとこの物語の中に「渡辺刑事」として出演させてもらってるわけで、なんというかその、奇妙な気分で読み始めることとなった。
 んー、作者が知人だからといって、自分がモデルにされた登場人物がいるからといって、提灯をもっていると思われるのは非常にシャクなのだが、傑作といわざるを得ない。

 今回は『ハサミ男』とガラリと趣向を変え、横溝正史の諸作に材を得た造りとなっている。僕もいわゆる横溝ブームの前後に結構な数の作品を読みあさったのだが、実は岡山ものより東京ものが好き、という変なファンだった。磯川警部より等々力警部の方が好き、という言い方もできる。泥臭いイメージのある岡山ものの名作群を評価するにやぶさかではないが、東京もののモダーンなイメージの方に惹かれるものがあった。
 殊能氏はおそらくそんな二分法に意味を見出さないであろう。殊能氏にとって横溝正史はあくまで「論理の人」であったのだ。
 これはユリイカはじめ各種殊能氏インタビューで自ら詳しく語っていることなので繰り返すまでもない。

 そんな殊能氏が横溝作品に敬意を表しつつものした『美濃牛』は、だからとても論理的な作品である。
 その構造や縦横に張り巡らされた仕掛けを語る才は自分にはない。ただひとつだけ書いておきたいのが、その文章のことである。

 以前、『ハサミ男』を読んだとき、それが知人の手になるものかどうか明らかでなかった時点で僕が感じた唯一の感想を、『VOICE』にはこう書いた。

筋とか展開とかはもとより、その語り口自体に違和感を感じない。これは、「わかっている」人の文体である。何が「わかっている」のかは、一口で言えないが、凡百のノベルス作家とは一線を画するのは明らかである。

 奥歯にものの挟まったような言い方で要を得ないが、読みやすくクセのない文体でいて表現された内容がスッと頭の中に入ってくる、その博識からあれこれ話題が飛ぶようで一切余計なことが書かれていない、そんなことを言いたかったのだと思う。

 僕がもごもごと表現し切れなかったことを、作者はこの『美濃牛』の中で、実に簡潔に書き記している。
 物語の冒頭近く新書版57ページの、羅堂陣一郎が正岡子規の文章を評して云う部分である。

 やがて陣一郎は、これは文章ではなく、頭の中身の問題だ、と気づいた。子規は頭が論理的に出来ている。何を書きたいか、何を言いたいかを正確に把握しているから、平易な表現で書きあらわすことができる。要するに、頭がいい、ということだ。

 まさにそういうことである。参った。自作の中で自己分析をされてしまってはかなわない。しかも簡潔に。
 続けてこうある。

 世の中には、平易に書く天才というものが存在する。子規がそうだし、漱石がそうだ。時代を下って、大衆文学に目を向ければ、岡本綺堂や、江戸川乱歩や、横溝正史が、平易に書く天才である。

 そして殊能将之もこの系譜に連なるのである。そのことは作者本人が間違いなく一番よく判っている筈である。
 であるからの、横溝であり、俳句である、ということだ。

 世の中には、いかにその時の風俗を書こうが、流行り言葉を使おうが、一向に古びない文章というものがある。逆にその時の流行や文句がほんの少し使われているだけで、いやに古臭く感じてしまう文章もある。今まで不思議に思ってきたのであったが、これでようやく判った。
 文体の問題ではないのである。その内容を平易に表現できるという才能の問題だったのである。

 かくして『美濃牛』は、ミステリの、いや小説の、決して古びることのない名作となるのである。