エレキングブログ前夜
名古屋エレキング倶楽部 ブログ以前の読み物 1997〜2005(再構築版)
2000年5月4日(木)ELEKING'S ANTENNA

中京テレビ制作深夜番組は今これだけ。

 中京テレビといえば、ローカル局ながら自社制作番組の豊富さには昔から定評がある。『お笑いマンガ道場』『5時SATマガジン』など全国に名を馳せた番組も少なくない。しかしながら大阪読売テレビなどに比べればまだまだ全国ネットの番組は数少ない。
 しかしここのところ、深夜枠において東京収録ではあろうと思われるものの中京テレビ制作のネット番組が増えてきている。確か、『EXテレビ』の途中から水曜日の枠が中京テレビ制作になった流れからだと思うが、現在は3本が放送されている。郷ひろみ&テリー伊藤の『ヤミツキ』、ヒロミ&飯島愛らの『ロミヒー』、YOU&辺見えみりらの『ピンクパパラッチ』がそれである。
 どの番組も深夜放送ならではのいかがわしさを持っているようで、カルト番組制作の中京テレビの面目躍如たるものがある。んー、どれも毎回しっかりとは見てないけどね。

2000年5月4日(木)ELEKING'S ANTENNA

「識者の声」はもういらない

 例の豊川市の高三による殺人事件について、5月3日付中日新聞朝刊に「識者の声」として三人の大学教授の談話が掲載されている。
 その中の「福島章上智大学教授」の談話。

「死」というものの重大性が全く分かっていない。テレビやコミック、インターネットなどにはいっぱい死が出てくるが、核家族化や病院で死亡するケースの増加で、家族らの死をみとる体験がない。未熟な体験と頭の中の観念にギャップがあり、それを埋めるために反抗に及ぶ。(中略)現代日本の青少年のケースは情報の洪水が背景にある。対策としては自然や動植物と触れ合う機会を増やすことなどが考えられる。

 上のコメントのようなことを言って(聴いて)、分かったような気になってる奴が一番始末に悪い。わしはもう36歳になろうかというオッサンだが、テレビやコミックやインターネット(ゲームじゃなくてインターネットというのがトレンドのつもりなのかね)のみならず小説・映画・ビデオなどでもいっぱい死を見る一方で、核家族だし、家族らの死をみとる体験もないぞ。でもまだ人は殺してないよ。一応、これからも殺すつもりはないんだけどね。
 対策として掲げた事柄も笑わせる。これ、対策かね。もっと考えてものを言ったほうがいいんじゃないの。
 こんなステロタイプと化したコメントを堂々と吐けるという神経にも恐れいるが、それを有難がって載せる新聞社の姿勢にもうんざりである。
 こういった特定の事件を一般化しようとするコメントにはどうしても過敏になる。自然と棘のある文章になってしまうが、言い過ぎかね。
 「わからない」ことを「わかったような気にさせる」識者のコメントという奴は、もういらないんじゃないの。そこで思考停止して安心したい、というんじゃない限り。

2000年5月8日(月)ELEKING'S ANTENNA

「識者の声」を新聞がツッコミ? 弁護?

 【0002】を書いた翌々日の中日新聞5月6日付けの夕刊1面下のコラム「夕すずめ」に、こんな文章が載っていたので思わずのけぞった。

 異常な事件が起きると新聞に識者の談話が出る。肩書きにつられて呼んで見てもピンと来ない場合が多い。識者談話とは刺身のつまであり、ステーキのクレソンみたいなものか▼十七歳の少年がいきなり主婦を刺し、バスを乗っ取ったり知るのは常識をはるかに超えている。常識の代表みたいな評論家の諸先生方に理解できるはずがない▼「裁判も始まらないのにわからない」というのがまともな識者だろう。「わからない」では対面にかかわるから、利いたふうなことを並べなければならない識者の先生もつらい▼それではなぜ新聞は識者の談話を載せるのか。強いていうならば「専門家でも権威者でも手に負えない事件の奥深さ」を読者諸賢に知ってもらうことができるから?

 なんだ、わかってるじゃん。
 しかしいいのかね,いかに夕刊の世評風刺欄とはいえ、新聞がこんなこと書いて。って、俺が心配するなっての。
 よっぽど、福島先生のコメントにあきれ果てたんでしょうな、新聞社内部でも。でも懲りずにバスジャック事件のことも聞いてたぞ、中日朝刊。ま、こっちはそんなひどいコメントではなかったけども。逃げのコメントっぽかった。

2000年5月13日(土)ELEKING'S CHOICE / BOOK

『おかしな男 渥美清』は 小林信彦 の代表作となりうる書。

 小林信彦によって僕の少年時代の嗜好の大半が決められてしまった、といっても過言ではない。
 出会いは小学生の時、区立図書館で見つけた『東京のロビンソンクルーソー』である。これは、それまでの中原弓彦名義のものも織り交ぜた、各誌に掲載されたミステリ・映画・コント・TV番組(バラエティ)などに関するコラム・時評や、編集長を務めていた「ヒチコックマガジン」の編集後記、 座談会、さらには小説・翻訳・コント台本等を収めた「バラエティ・ブック」である。続編に『東京のドン・キホーテ』というのもあり、この二冊が今に到るまでの僕のいわゆるバイブルである。
 大学生になった時、絶版(現在も)のこの晶文社の二冊を古本で発見し、前回の引越しの際に大半のハードカバーの本を処分してしまった今も、宝物のように本棚の奥にしまってある。

 しかしながら、小林信彦によって、本の読み方、映画の見方、バラエティの楽しみ方を教えられたものの、長ずるにつれ、僕自身の資質との差も明らかになってきた。小林信彦のように読んだり、見たりは到底できない。性格の暗い面や、ある種偏執的な部分に違和感も覚えるようになってきた。そのことを、父親に対する劣等感に由来する反抗期的なものと自分自身で分析したりもした。そのせいか、成人してからは、少し距離を持ってその著作に接してきたように感じる。

 だから近作の『横山やすし天才伝説』なども、小林信彦の嫌な部分のみ目についたし、新聞や雑誌のコラムを読んでも自分と相容れない部分ばかりに目がいってしまう。(とはいえ、刷り込みもあって基本的には楽しんで読んでしまうのだが。)

 この『おかしな男 渥美清』も、「波」で連載されていたことも知らなかったし、出版されたことすらしばらく気づかなかったぐらいだ。

 渥美清、に関してとりわけ興味があるわけではない。当然、僕らの世代にとっては「寅さん」のイメージしかないわけであるが、僕自身はそれ以前の活躍ぶりも小林信彦の別の著作から知識を得てはいた。小林信彦とのつかず離れずの関係も、それらの文章で何度も目にしていた。それほど、期待して読んだわけではない。

 だが、満足して本を閉じることができた。

 題材への取り組み方や、その書き方が従来とそれほど異なったものだとは思われない。老いや死への視線も、近来の小林信彦の著作には顕著なものだ。

 ひとついえるのは、この渥美清の評伝が、小林信彦が今までものしてきた芸人に対する評伝の中でもっともボリュームのあるものになっているということである。その圧倒的な分量の中で、一人の見巧者が、同じく見巧者の資質を持った才能ある芸人との出会いからその活躍、死までを余すことなく書ききっている。そして幾分突き放したような書き方をしているものの、横山やすしよりは渥美清の方を身近に感じていたのであろうことも、読後感に影響しているのかもしれない。

 だから「この文章では、ぼく個人の生活については、なるべく触れないようにしたいのだが」と書いているにも関わらず、「小林信彦の物語」の一部ともなっているのである。

 もちろん単純に、偏執的な記録/記憶から再構成された一人の芸人の、そして昭和の笑芸・日本映画の評伝として読んで、無類に面白いことは確かである。

2000年7月17日(月)eな日常。

携帯不携帯

 いまだ携帯を所持していない。
 いかに内勤の仕事とはいえ、この御時世、不便に感じることも少なくない。 特に人との待ち合わせなんかする場合、あった方がなにかと安心である。
 携帯がない時代は、そんなこともそれほど気にならなかったけども、世の中そういう環境になってきているので、「今までなくても暮らしていけた」などといっても仕方がない。車がなかった時代、電話そのものがなかった時代のことを思うのと同じ事である。

 先日も会社でネットワーク関係の打ち合わせがあって、ネットワーク会社の人間と印刷機材販売の人間と我が社の営業と僕以外はすべて営業という顔ぶれだったのだけど、そこで携帯の話になった。「携帯がないと仕事にならない」「携帯のおかげで書き置きメモが減った」とかいう話で、そうだろうとも思う。
 「移動中でも連絡ができる」という基本的な長所から「バスや電車など移動中に使えないのでは意味がない」 という感想が導き出されるのも、まあそうだろうとも思う。

 だからあくまで感覚的なものと判ってはいるのだが、携帯が嫌いなんだからしょーがない。

 バスでキャッキャと携帯で会話している女子高生やOLを見るとムカムカしてくるし、地下鉄に乗り込んでくると同時にピピピピとメールをチェックしている兄さんを見てもムカムカする。
 今日も帰りのバスで運ちゃんの注意をものともせず、喋りまくっていた若い女がいたが、貴重な読書時間なのに気が散って仕方がない。これが、人間同士の生の会話であれば左程苦にならないというのは不思議である。
 ここら辺は単なるオッサンの反応なので、このことをいくら詳しく書いてもつまらない。

 なので、どうなれば僕が携帯を持ってもいいと思うようになるか、考えてみよう。

1)鳴らない。
 これは今でもできるんでしょ。設定で。意味ない、という意見もおありでしょうが、妙な着メロが不用意に鳴って欲しくない。よくみんな恥ずかしくないな。最新ヒットなんかピロピロ鳴らして嬉しいか。嬉しいですか。そうですか。
「只今から私は私用(公用でも構わないが)モードに入りますよ。呼ばれてんだからしょーがないだろ」と宣言するのと同じことである。いや、同じことで何が悪い、と切り返されても困るのですが。

2)パソコンとほぼ同等の機能になる(インターネット限定でも可)
 なんかこれも実現しつつあるような気もするが、iモードなんてみみっちいこと言ってないでなんとかしなさいよ。要するに画面の小ささをなんとかする技術ね。ま、考えてみれば携帯自体に大きな液晶つけなくてもいいわけだから、携帯用の小型の液晶モニターを別に持ち運ぶようになればいいわけか。 ていうかモバイルそのものだけども、そこをもちょっと簡潔にめんどくさくなくやって欲しいわけッ。(我儘)

3)可能な限り小さく
 普段、携帯を入れるような鞄を持ち歩かなかったり、ポケットのついた衣服を身に着けなかったりする僕にとっては、理想は腕時計ですね。ウルトラ警備隊の例のやつのような。あとは尻ポケットに入るような超薄型折り曲げ可ハンカチタイプとでもいったようなもの。

 なんかいろいろ我儘言ってナンクセ付けて、ケータイを持ち歩かない言い訳にしようと思っていたのだが、どれも近々にほぼ確実に実現する(既にしている)ものばかりだな。
 じゃ、こうしよう。

4)タイムトラベルができる。

5)シャワーの代わりになる。

6)ヒゲもそれる。

7)マッサージもしてくれる。

 このうちのどれかは実現しそうで嫌だな。