『おかしな男 渥美清』は 小林信彦 の代表作となりうる書。
小林信彦によって僕の少年時代の嗜好の大半が決められてしまった、といっても過言ではない。
出会いは小学生の時、区立図書館で見つけた『東京のロビンソンクルーソー』である。これは、それまでの中原弓彦名義のものも織り交ぜた、各誌に掲載されたミステリ・映画・コント・TV番組(バラエティ)などに関するコラム・時評や、編集長を務めていた「ヒチコックマガジン」の編集後記、
座談会、さらには小説・翻訳・コント台本等を収めた「バラエティ・ブック」である。続編に『東京のドン・キホーテ』というのもあり、この二冊が今に到るまでの僕のいわゆるバイブルである。
大学生になった時、絶版(現在も)のこの晶文社の二冊を古本で発見し、前回の引越しの際に大半のハードカバーの本を処分してしまった今も、宝物のように本棚の奥にしまってある。
しかしながら、小林信彦によって、本の読み方、映画の見方、バラエティの楽しみ方を教えられたものの、長ずるにつれ、僕自身の資質との差も明らかになってきた。小林信彦のように読んだり、見たりは到底できない。性格の暗い面や、ある種偏執的な部分に違和感も覚えるようになってきた。そのことを、父親に対する劣等感に由来する反抗期的なものと自分自身で分析したりもした。そのせいか、成人してからは、少し距離を持ってその著作に接してきたように感じる。
だから近作の『横山やすし天才伝説』なども、小林信彦の嫌な部分のみ目についたし、新聞や雑誌のコラムを読んでも自分と相容れない部分ばかりに目がいってしまう。(とはいえ、刷り込みもあって基本的には楽しんで読んでしまうのだが。)
この『おかしな男 渥美清』も、「波」で連載されていたことも知らなかったし、出版されたことすらしばらく気づかなかったぐらいだ。
渥美清、に関してとりわけ興味があるわけではない。当然、僕らの世代にとっては「寅さん」のイメージしかないわけであるが、僕自身はそれ以前の活躍ぶりも小林信彦の別の著作から知識を得てはいた。小林信彦とのつかず離れずの関係も、それらの文章で何度も目にしていた。それほど、期待して読んだわけではない。
だが、満足して本を閉じることができた。
題材への取り組み方や、その書き方が従来とそれほど異なったものだとは思われない。老いや死への視線も、近来の小林信彦の著作には顕著なものだ。
ひとついえるのは、この渥美清の評伝が、小林信彦が今までものしてきた芸人に対する評伝の中でもっともボリュームのあるものになっているということである。その圧倒的な分量の中で、一人の見巧者が、同じく見巧者の資質を持った才能ある芸人との出会いからその活躍、死までを余すことなく書ききっている。そして幾分突き放したような書き方をしているものの、横山やすしよりは渥美清の方を身近に感じていたのであろうことも、読後感に影響しているのかもしれない。
だから「この文章では、ぼく個人の生活については、なるべく触れないようにしたいのだが」と書いているにも関わらず、「小林信彦の物語」の一部ともなっているのである。
もちろん単純に、偏執的な記録/記憶から再構成された一人の芸人の、そして昭和の笑芸・日本映画の評伝として読んで、無類に面白いことは確かである。