17日はR-1ぐらんぷりをやっておったので視聴。
毎年毎年、あのショボさはなんだと非難を続けてきたのだが、今年はそれなりに事前の盛り上がりも(一部には、だが)あり、番組の造りもまずまず豪華になり、録画ではなく生になり、と少々全体に上向き気味。
雨上がりのMCはまあ相変わらずだけど、アメトークの好調さもあって自信が感じられるし、こちらも慣れてきたという部分がある。
ただ見終わった感想としては、昨年のM-1でも感じた「決勝進出選考基準の曖昧さ」がつきまとう。
いやこれ不正とか裏とかそんなことを言ってるわけじゃなく、単純にこの決勝に残った内の少なくとも半分以下の芸人およびネタよりも面白い芸人・ネタなんか無数にあるよね、ってこと。
そう、単純にレベルの問題を言いたいのだ。
せっかくの大きな大会なんだから、やっぱ粒ぞろいだなあ、という感想を持ちたいじゃないの。
ということで、一人一人の感想を順に書いていこうかなと思ったのだけど、最近僕がバラエテイの見方に関して全幅的な信頼を寄せているこちらのサイトで既に言い尽くされているような気がするので、やめておこう。
ざっとだけ書いておくと、今回の順位自体にはほぼ異論がない。単純に笑いの多かった順という感じもするし、なだぎを選ぶか芋洗坂を選ぶかはほとんど好みの問題のような気もする。
もちろん、芋洗坂はほとんどの観客にとって初見であるという圧倒的なアドバンテージがかなり上積みされているということは言うまでもない。
ただキャラとしても好きだなあ、僕は、あの感じ。
逆にナベアツは短期間でかなり浸透してしまっていると思われるネタをベースにしてよく頑張ったといえる。
最初の「5の倍数の時は犬っぽくなる」だけで終われていれば幸福だったのに、複雑になりすぎたというのは大方の意見同様。
鳥居みゆきはやはり苦手な部類。興味はあるんだけど、自分には少し笑いにくいポイントを押してくる。
あべこうじは、あのネタがつまんなかったとしか言いようがない。もっと面白い筈なんだけどなあ。
あ、結局一人一人語り始めちゃってるな。
実は録画で夜見たのだが、見る前にうっかりネットニュースで「なだぎ優勝」の文字を目にしてしまった。
で、「そりゃないだろ、まったく」という気持ちで見始めたのだけど、見終わって納得ですよ。
文句なしに笑えるし、良く出来ている。
ただ殊能センセイ同様、ネタの選択が古過ぎないかいとは確かに思ったね。
20代以下のやつはわかんないんじゃないの、と。
でもよく考えたら、ディランだって元ネタ知らない世代がゲラゲラ笑ってた筈なんで、一緒のことなんだよなあ。
つことで、芋洗坂の今後の展開に興味津々。(野次馬的に)
ちょっと間が空いているので簡単に近況など。
といっても、特に何があるわけでもない。
ただ、先週末は毎年恒例の池袋出張があったので、それに絡めて3日間東京で過ごした。
初日、二日はサンシャインでセミナー受講および展示視察。
受験シーズンで池袋のホテルが満杯になっていたので、赤羽に宿を取った。
で、その行き帰りにラーメンを喰うのはいつものこと。
二日目の夜に、旧友と新橋で待ち合わせ。
彼の別の友人2名とともに3軒ほどハシゴ。
1軒めはここでネタにしたかったのだが、ネットに書くなという掲示を見つけてしまったので詳しく書けない。
我々世代の懐メロ酒場とだけ言っておこう。
倉田まり子やリンリンランラン、原田真二にゴールデンハーフなどのリクエスト(映像付き)が通ってしまうのに感心。
しかし、84年?90年ぐらいだったらワシの秘蔵映像でも同じことができるなあ、と思ったり。
2軒目は、『豚娘』と書いて「とんこ」と呼ばせる立ち飲みの店。
とんやきメインだが、立ち飲みといっても新橋にちなんで列車をイメージした店内でそこそこオシャレ。
従業員は全員女性で、女性や若者も入りやすい雰囲気だが、やはりオッサンが多かった。
3軒目は、バーです。『TALISKER』というかなり本格的なバー。
銀座なんで、いかに良心的な価格といえども、慣れぬわしなどにとってはこんなところで飲んでおってはいくら金があっても「たりすか」っちゅう感じ。
成り行きでサッポロラーメンを喰った後、山手線と総務本線の超満員の終電を乗り継ぎ、彼の下宿先の浅草橋へ。
もう一軒ぐらい目論んでいたようだが、満席だったのでそのまま下宿へ。
バタンキューで、翌朝はほぼ二日酔いなし。昨年はひどかったからなあ。
昼前に出発し、お茶の水?湯島天神を廻って、千駄木から谷中銀座をぶらり。
そのまま谷中霊園で著名人の墓を見て廻り、実は前日もサンシャインから徒歩圏内の雑司が谷霊園で夏目漱石の墓を見物してきたのであったが、こうしたところを廻るようになるとは歳をとったものよのうと感慨にふける。
そのまま日暮里から東京駅に出て、久々に丸の内側に出てみる。
oazoの丸善など少し冷やかして、3時過ぎのN700系に乗って名古屋へ向かう。
途中、豊橋のあたりから景色が真っ白に。
安城のあたりなど、秋田かと見紛う白い田園風景。
しかしそれほど遅れもなく、名古屋到着で降りる直前に偶然同じ車両に乗り合わせた知人に声を掛けられびっくり。
まあ、駆け足でこんなところでしたかな。
らの方は、向こうでたっぷりレポしてますが。
2度に渡って映画化もされているSFの名作の新訳。
『ソラリスの陽のもとに』という邦題でハヤカワから出ていたものを一応読んでいたが、細かい部分はかなり忘れてしまっている。
映画は2作とも未見。(タルコフスキーの方は部分的に見た気も...。)
さまざまなテーマを内包し、いろんな側面から語られる多面的な作品であるが、今回読んで一番考えさせられたのは、「我々は一体誰を愛しているのか」ということである。
惑星ソラリスの海は「生き」ており、人間の記憶・意識を再構成して実体化させることができる。ソラリスに到着した主人公の目の前には、昔、自殺させてしまった恋人が立ち現れるのだが、当然それはソラリスが実体化させた存在。
姿形は記憶の中の恋人とまったく同じであるが、昔の記憶も持ち合わせないし、会話もかみあわず異質な存在であることは主人公にとっても歴然としている。
はじめのうちは気味悪がり、その存在を抹消しようとさえする。
にも関わらず、やがて主人公はその存在を愛し始めてしまうのだ。
ストーリー自体の軸はこの主人公ケルヴィンと昔の恋人をかたどった存在ハリーとの関係にあるので、この作品を一種のラブストーリーとして見る向きがあるとのことだが、僕には信じられない。
まさにそうしたラブストーリー一般に冷や水を浴びせかけるようなビジョンを見せつけられてしまった思いだ。
我々が愛していると思いこんでいるものは、いったい何なのか。
この先は他者論なりコミュニケーション論なりの領域に踏み込んでいくことになるんだろうが、当然僕にそんな力量はない。
久々にSFを読んでいろんなことを想起した。
さすが名作。