『リアルのゆくえ ──おたく/オタクはどう生きるか』大塚英志+東浩紀
副題はそのままこの論者二人のことを指すとも解釈できる。
ひらがな表記とカタカナ表記にひとつの世代差を見出す態度が大塚にはあるわけだが、「オタク」であろうが「おたく」であろうが、僕にとっては微妙な距離感のある言葉である。
自分を振り返った場合、〈オタク〉と云われてもさほど違和感のないライフスタイルで青春期を過ごしてきたと自覚はしているのだが、この言葉が一般化した80年代末、宮崎事件が起きたあの1989年夏に、当時としてはかなり大規模な〈オタク〉の祭典のうちのひとつであった筈のSF大会のスタッフを経験したのを最後にそうした所からひとまず距離を置くようになる。
だから世間で〈オタク〉が注目を浴びるようになった時には、既に自分をその対象として認識しておらず、部分的にはある種のシンパシーを感じつつも全体としてはどこかしら他人事のような意識の仕方をしていた。
微妙な距離感というのは、そういうことである。
余談ながらもうひとつ個人的なことを重ねると、自分には二次元美少女キャラに対する拭いがたい苦手感があって、それを奉る傾向にあるとされる〈オタク〉のイメージを自分に重ね合わせることに対する偏狭な嫌悪感といったものがあることを告白しておく。
だから90年代以降のアニメ、ゲーム、ラノベへの関心も薄いし、幼き頃から培ったそれ以前のそうした対象への知識との格差は大きい。
当然、以降の〈オタク〉周辺の状況にも疎く、このあたりを取り巻く代表的な論客であろうこの二人の著作も、ほとんど追いかけてこなかった。
だが、このところなんとなく新書を中心に代表作を数冊ずつ読んでいたところで、ちょうどこの本が出た。
まさにこれを読むために準備をしていたかのようなもんだが偶然に過ぎない。
仮にそうだとしても果たしてこの本にそんな準備をするだけの価値があったのかなあという感想ではある。
とはいえ、この二人の思想背景に対するある程度の準備なくまったく白紙でこの本を読んでも、内輪話というかサークル内の言説といった部分も多く、なんのことやらわからないということになりかねない。
でもひょっとしたら実はその方が本質が見えやすいのかも知れないけどね。
ものすごく素朴な感想を云うと、「世代論議」ってみっともないよなあ、ということ。これ、改めて感じた。
論議をするときに、相手の世代を問題化するってのはそれほど有効なことなんだろうか。
自分が属する世代を非難されたところで、その事実を変えることはできないわけで、そこから不毛でない何かが産まれる可能性は限りなく低いように思う。
たとえば、2ちゃんとかでよくみかける「ゆとり」とか「ゆとり世代」とかいう蔑視語がとてつもなく嫌いだ。
「ゆとり教育」が正しかろうが間違っていようが、その世代が恣意的に選び取ったものでは当然ないわけで、そうした因果関係をまったく飛び越え自らの根拠のない優位性を誇る態度はまったくもって唾棄すべきものだと思っている。
自分の世代はああだったこうだったという昔話と、それに比べて君らの世代は、という世間一般によくある論調が、ここでの大塚の場合、東個人に向けた苛立ちとして表面化されているようではあるものの、でもやっぱり世代論に収斂されてしまうように読める。
世代間の論議が目玉であるこの本に対し、これがいささか的外れな感想であろうことは薄々感じるが、このまったく噛み合わないような、それでいて微妙にじゃれ合い的な(プロレス的な)雰囲気を感じなくもない不思議な対談本を読んだ感想としてはまあそんなところである。
読む前の予想に反して、あくまでどちらかといえばだが東に若干肩入れをしている自分にちょっとびっくり。